人間関係とか認識とか
人の気持ちや言動、空気の相互作用について学習することは、結構難しいものであると思っています。その感覚は子供の自分からあまり変わらないままです。見えない設定、明かされない事実、相互に干渉し合う流動的な要素が多いと感じるからです。
架空のストーリーを例に考えてみます。
BさんがAさんに「私のことが嫌いだからって、こんな嫌がらせしなくたっていいじゃない!ひどい!」と言い、それに対してAさんが「確かにあなたのことは嫌いだけれど、嫌がらせでやったんじゃなくて、荷物を片付けてあげようと思っただけなのに!」と言ったとします。
多分、BさんはAさんの言うことを信じないだろうと思います。周囲の人がどう捉えるかは、周囲の人の感性や考え方によって色々だろうと思います。また、日頃のAさんBさんへの評価によっても変わるだろうと思います。
「Aさんは、いくら嫌いな相手だからってそんな嫌がらせをする人じゃないでしょ。」
「いくら嫌いな相手だからって、嫌がらせをするなんてAさんはひどい。」
の、どちらもあり得る反応ではないかと思います。
Bさんの人望如何によっても反応は変わるでしょうし、場合によっては「Aさんは嫌がらせでやったのかもしれないけど、Bさん相手じゃぁそうしたくもなるよね。かわいそうだけど気持ちは分かるな。」なんて変化球な反応もあるかもしれません。
本当のことなんて分からないし、場合によっては『本当のことは重要ではなく意味もない』なんてこともあるのだろうなと思います。どんなつもりで言ったかよりも相手がどう受け止めたかの方が人間関係においては重要な意味が発生することもままあると考えているからです。
(全てにおいて本当のことは重要ではなく意味もないと考えている訳ではありません。理由がズレたままでは対応もズレたままとなっていき、人間関係の拗れや暮らしの中での困り事の原因になっていくだろうと思うからです。)
人間関係は、他者との間に発生するもの・・・・だけではないと私は認識しています。相互に影響を受け合いながら『個人の中』に発生していくものでもあるのだろうと思っているからです。
・共有はできるけれど、自分の外にあるものではなく「自分の中に生じて外界に投影するもの」が『個人が認識する人間関係』であるとして、
・そうであっても運用としては『相手との間に発生しているもの』として取り扱われ、
・現実にそれが起こる時には出来事として確実に存在し
・それがまた個々人の内にある『こうだと思っている人間関係』に反映されていく。
人間関係というものはそのような仕組みを持つものなのではないかと現時点では考えています。
空気を意思疎通のクッションとして使うこと。仲間かどうか立ち位置はどうかなどを測ること。パワーバランス。相手がどう認識しているかをはかり続け、自分がどう見えるかを調整し続けること。
それらが社会を作っていて、私は社会のお陰で文明の中に生きていて、凄い仕組みだし有用だと思います。ただ、私にそれが難しいようです。『価値を見ていないからしない』のではないと私は思っているけれど、それは言い訳で、本当は私がそれらを軽んじているからなのでしょうか。
私が生の社会から学習しようとすることは『PC操作のできない人が、エクセルの操作方法をぱぱっと見せられて「こうやるの?分かった?」と言われているようなもの』なのかもしれません。その例えで言うのであれば、できなければ本を買って自宅でも勉強して、必要な業務をこなせる様にならなければ会社に迷惑をかけるわけで、一応私なりに本を買って読んでみたりはしているのですがあまり成果は見られないようです。
時々、会社からクビを言い渡されるように社会からクビを言い渡されているような気持ちになることがあります。
その気持ちも、私の被害妄想なのかもしれませんし、そうじゃないのかもしれないし、やっぱりよく分からないことだらけです。