ASDとADHDは私の全てじゃないけれど

成人になってからASDとADHDの診断を受けた人のブログです。ストラテラを服用しつつぼちぼちやっています。

私は療育に何を求めているのだろう?

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不安に思うポイントは?の続きです。

 

スクールカウンセラーの先生はよく私を褒めてくださいます。お世辞もあるのかもしれませんが、「お母さんの関わりがとても適切で良いので、療育施設に行ってもあまり目新しいことはないと思う」と言ってくださっていたので、コウは就学してから施設などで療育を受けることはありませんでした。

 

 

そんなカウンセラーさんとの前回のカウンセリングで、私は「私以外の人とコウを関わらせたい。思春期に入った時、親以外に頼れる大人がいて欲しいと思う。」と言い、その結果勧められた療育施設が、今まで書いてきた「いいとこなんだろうと思うけれど、コウは大丈夫かな?」と思う施設なのです。

 

つまり、「合うだろう(合うかもしれない)」ということでお勧めして頂いた施設なわけです。

 

実際、先生のチョイスは間違っていないのではないかと思います。先生が褒めてくださる私のポイントと、その施設での療育は、合致しているところが多いだろうと思うからです。

 

・基準を指導側がきっちり決める

・スモールステップで課題を与える

・やればできるという実感を持てるようにし意欲を引き出す

ごね得はさせない

・よく説明し納得させる

 

などが合致しているところかと思います。

 

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一方、スタンスとして一部合致しないところもあります。

 

「こういうことを楽しいと思うのがいいのだ」ということを教えるというのは、何だかひっかかりを覚えます。言葉尻をとらえるような言いがかりのようなものかもしれませんが、「楽しいと思う感性」は他者から推奨されるものなのでしょうか?

 

私は、コウが問題行動を起こすような『楽しさの感性』を持っていれば、それは強く戒めると思います。極端な話、友達に嫌がらせをするのが楽しいとか、親のサイフから金を抜くスリルがたまらないとか、そんな楽しさは認める訳にはいきません。また、もしコウが他者の『楽しさの感性』を否定したら、それも嗜めると思います。

 

けれど、「推奨される楽しさの感性」って何なんだろう?と感じるのです。それが、根っからの本当であったとしても、一時的な方便であったとしてもです。

 

私は、「あなたはそうは思わないかもしれないけれど、多くの人はこういうことを楽しいと思うんだよ。」「こういうことも楽しいと思えるかもしれないから、やってみよう。」というスタンスでコウに働きかける方です。

 

なので、不安に思うポイントは?に書いたような不安もあるのですが、それ以前に「何かイヤ」といった感じの単純な拒否感があるのかもしれません。療育どうこう以前に、教育のスタンスがウチと違うかしら大丈夫かしらという神経質な親心があるのかな?という気もします。

 

案外その辺りと近い要素なのかもしれないもう一つの引っかかりに、「偏食への対応」があります。そこの施設は、説得し時間をかけ時にはプレッシャーも使いつつ食へのこだわりを解消していくようなのです。基本的に私よりもスパルタな夫でも、ここは受け入れられないようでした。

 

そこの施設の理念も分かります。食のレンジを広げた方が、その子の人生は後々楽です。大人になるまでに給食とか色々な壁がありますし、食は社会性に密接に関わるものなので、偏食は解消できるのならその方がいいと思います。

 

けれど、コウの場合は肉が食べられない程度で、しかも少しずつ克服しているのなら別にそれでもいいやというのも確かに私の正直な気持ちです。私は、「食べられるか分からないものは、最初の一口は慎重に食べなさい。『あ、食べれない!』と思ったら、吐き出すのは行儀が悪いから水でぐっと飲み込みなさい。」とコウに言っています。

 

私の知る限りでは、わがままの偏食でなければ大人になって解消していく偏食は多いですし、今までに何人か「別に強制じゃなくて自力で偏食を克服しようと頑張った結果、全くその食材を受け付けなくなった」という人に会った経験からすると、そんなにそこで目覚しい成果を上げなくてもいいかなーと思うところはあります。

 

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そうやって考えていくと、でも、引っかかるのはその2点だけで、後は「丁寧な療育を行っていらっしゃるのだろうな」と感じるわけです。悩みます。

 

悩む中で、「私は療育施設に何を求めているのだろう?」と考えると、

 

・何かあった時に子供が相談できるところ

・その時、「頑張れ」でも「いいじゃんそんなの」でもなく、「そうか、それは大変だね」って言った上で知恵を貸してくれるところ

 

が、あるといいなーと思っているようなのです。訓練所よりも相談所、居場所としてのウェイトがひょっとしたら大きいのかもしれません。(勿論訓練も求めてはいますが。)

 

頑張らないで生きていける程社会は甘くないのでしょうが、頑張り続けて生きていける程人生も甘くないような気がするので、弱った時の居場所があるといいなと思っているのかもしれません。

 

 

合格点が60点だとしたら「70点以上はないとね」と言うであろう社会の中で生きていけるように・・・と望むことを考えれば、「見れば分かるでしょ」「普通わかるでしょ」の連続である剥き出しの社会に揉まれるよりは、「ちゃんと教えてくれるところ」であるところの療育施設に揉まれた方が、ひょっとしたらコウのためなのかもしれません。そういう考えはあります。

 

一方、私のみならずスパルタな夫が「基本的な教育理念に何か引っかかる」と感じるところは、「家庭の教育方針と合わない」ということなのかな?と思ったり・・・・良質な療育の機会を、そんなしょーもない理由で逃すのはアホなのでしょうか?

 

選択肢が豊富にあるわけでなし、未来を覗けるわけでもなし、これからスクールカウンセリングの日まで、時折うんうんと考える感じになるのかもしれません。

 

そもそも、蓋を開けてみれば「確認したら今順番待ちで当分空きがないみたいで・・・・・」というオチがつく可能性もあるので、材料の少ない段階でふわーっと妄想し過ぎないように、ほどほどボンヤリしながら過ごしていこうかなと思うことにしました。次回のスクールカウンセリングの中での話し合いなど含め、いずれ続報を書きたいと思います。