ぼーっとした子の話
ASDの方は身体に対する感覚に過敏さや鈍麻を持っていることも多く、光を眩しがったり音をうるさがったり、皮膚へ伝わる感触に受け付けないものがあったりするようです。
私にも子供の頃からそれらの傾向はあったと思いますが、自分にとっては自分が普通なので、それを妙だと思ったことはありませんでした。
光が眩しくて目が開けられないのは「子供だからねー」となり、音や触覚に敏感なのは「繊細なのね」「神経質な子ね」ということになり、細かなこだわりは「神経質で頑固」「強情」ということで処理されますし、何もない所でつまづき協調運動が苦手で瞬発力がないことは「どんくさい子だねー」「ニブい子」「ぼーっとしてるから」という評価として私に返ってきました。
なので、そういうものなのだと思っていました。キャラクターであり性格であるという処理ですね。私は一斉指示が通りにくいタイプでしたし、話は聞いているけれど例によって『何を言っているかは分かっても何を言いたいかは分からない』ので、そういうことも含めて『基本的にぼーっとしている子』ということで通っていたように思います。
私を育てた母によると、幼い頃水に塗れた服が肌に張り付くのを嫌がり、手洗い場で靴下に水が跳ねて泣いたことがあるそうです。これは、自分にも薄っすら記憶があります。服の一部が濡れた感触が嫌であるのと同時に、「本来濡れるべきではない(水着などのものではない)服が濡れたショック」を感じていました。
同様の理由で、保育園にて下着姿になって行う泥遊びも苦手で、他の児童が楽しそうに遊んでいることを信じがたい気持ちで見ていた覚えがあります。できるだけ泥を被りたくないなぁと思っていました。泥はべちょべちょざらざらして、あまりいい感覚には思えませんでした。
そんな私が、一番最初に「自分の五感の感じ方は少し人と違うのかな?」と思ったのは高校生の時です。体育でハンドボールをしていたのですが、ゴールのある方に太陽があって、私は眩しくて目を開けられませんでした。なので、しかめっ面に近い程目を細めてボールを投げていたのですが、それを何人かのクラスメイトが「凄い顔」だと笑うのです。
それで、「え?眩しくないの?」と聞くと、「え?眩しいって何が?」という感じの反応で、あれ?と思い改めて周りを見てみると、目が開かないといった様子の人は私だけなのです。
だからといって、『私はこのことをきっかけに、自分の感覚と世間のそれとの間にあるズレに少しずつ気付いていくのでした。』となる訳でもなく、「あぁ、そういうこともあるんだな。」と思っただけでした。少し眩しがりなのかな?と思っていたのです。
相変わらず私は眩しい景色の中で目を開けることが苦手なので、景色が白飛びする程に白く光る、今のような真夏の昼間に出歩くと目が開けられません。今日も、近所を『すごい顔』で歩いていたのですが、見知らぬ小学生の男の子が「こんにちはー」と声をかけてくれました。
すごい顔のまま「こんにちはー」と返しつつ、すごい顔の私でも見知らぬ子供に声をかけてもらえることに、有難さのようなものを感じるひとときでした。