ASDとADHDは私の全てじゃないけれど

成人になってからASDとADHDの診断を受けた人のブログです。ストラテラを服用しつつぼちぼちやっています。

片付けと線引き

f:id:p_g:20190404005421j:plain

 

私は、片付けに気付いた日 に書いたように、10代の半ばも過ぎた頃、一枚のコートによって片付けるということの意義に気が付きました。

 

気付いたものの、それで突如として片付け力が身につく訳ではありません。母の片付け方は手数のマメさと記憶力に頼る片付けであり、疲れやすく記憶の混ざりやすい私には、難しい片付け方法でした。

 

ということで、私は自分の片付け方法を模索することにしました。

まずは管理しやすいように物を減らすことにしたのですが、私はいきなりここで躓いてしまいました。自分なりに「これ要る」「これ要らない」「これは・・・保留かな・・・」と分別をしていった結果、大して物が減っていないのです。不思議です。

 

 

これはどうやら、既に基準の線引きに失敗しているらしい。

 

 

そう考えた私は、改めて物の要不要の分別の前に、片付けのあり方について考えることにしました。

 

そもそも、物をしまうとは一体何なのか。それを必要とする時の為に保管しておくということだとすると、「どこにしまったのか分からない」となった時点で、既に収納としては失敗していると言えそうです。

 

そこから考えると、

 

・どこに何があるか一目で分かる。

・どこに何があるか覚えていられる。

 

ということが収納には求められているのだろうということが分かりました。当たり前のことですが、改めて考えてみると、私の片付けはこの2点がさっぱり出来ていないことが分かります。まずはその2点の実現に向けて、基本的な基準を再考してみました。

 

f:id:p_g:20190404005434j:plain

 

1.どこに何があるか一目で分かる。

どこに何があるか一目で分かる為には、できるだけ物を詰め込まないことが求められます。前後に物を置きたい場合は、奥に大きな物を置き手前に小さな物を収納する必要があります。

 

そこで、大きな本を後列に、小さな本を前列に収納することにしました。すると、これは多分面倒になって出さないだろうなということが分かりました。大抵の大きな本は厚く小さな本は薄い為、奥の本を1冊出す為に手前の本を2、3冊どかす必要があります。

 

『収納とは、必要とする時の為に保管しておくということ。』ということからすると、必要とする時に出しにくい収納は機能として優れているとは言えません。数冊レベルではなく、根本的にごっそりと本を減らす必要がありそうです。けれど、どれも大切な本です。何を減らせばいいのか分かりません。困りました。

 

 

2.どこに何があるか覚えていられる。

困ったまま、ひとまず次の『どこに何があるか覚えていられる収納』について考えます。これは、量を減らすと同時にカテゴリーをきちんと分ける必要がありそうです。「これはどこにしまうべきだろう」という考え方よりも、「自分であればこれをどこにしまうだろう」という処理の仕方が必要になると思いました。

 

その2つを意識して改めて部屋を見てみると、「これは、収納スペースよりも物の方が絶対に多い。」ということがしみじみ感じられました。もうこれは絶対に入らない。ルール無用で押し込まない限り入らない。じゃぁ減らすしかない。でも、今の基準では減らなかった。そして、私の感覚は急には変わらない。ということは、『いる・いらない』で判断したら物は減らないということになります。

 

それらのことを踏まえて考えた基準は、このようなものになりました。

 

 

・無くなったら困るものは残す。

 

・無くなっても困らないが思い入れが大きい物は数を絞って残す。

 

・無くなったら困るかどうか分からないものは一度保留箱に入れて、無くても大丈夫かどうかしばらく実験してみる。

 

 

この3つの基準に基づき、再度物の整理整頓をしてみました。一度目で、1/3か半分程の物が減ったと思います。

 

その時に保留箱に入れたものの中には、意外と要らないものも意外と要るものもありました。保留箱には少し大胆に入れてみるのが良い結果を生むようです。自分の中の基準が見えやすくなります。

 

f:id:p_g:20190404005448j:plain

 

そうして少しずつ『何が入っているのかよく分からない箱』『奥に何があるのか分からない棚』『10年かかっても使いきれなさそうなペン』達を、何が入っているのか分かっている収納にしていきました。今では、謎の箱や謎のキーホルダーや貰い物のペンといった物達は殆どありません。

 

殆どであって『全くありません』ではないのは、たまに「これはここじゃないかもしれないけどまぁいいか。」「これは取っておかなくてもいいかもしれないけど、まぁいいか。」と思う物を、飽きるまで残しておくことがあるからです。

 

それが何かの拍子にひょこっと出てくると、過去と今が繋がっていることを実感するような気持ちになるのです。