ASDとADHDは私の全てじゃないけれど

成人になってからASDとADHDの診断を受けた人のブログです。ストラテラを服用しつつぼちぼちやっています。

園芸と私と子供

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秋も深まり、そろそろ春に咲く球根を植えるのに良いことになってきました。週末の台風や長雨が続いているので、週間天気予報を見ながらあれこれ植え替えています。

 

一年草は買ってきて植えることが多いのですが、それ以外は祖母や母から分けてもらった株だったりするので、何となく年齢高めの雰囲気の庭かもしれません。好みのものや馴染みのものを分けてもらう内にそうなってきました。

 

庭で水撒きなどしていると、通りがかるご近所さんから声をかけられることが多いのですが、『年齢が高そうな雰囲気の庭であることが声をかけやすい理由になっているのではないか?』と母は言います。新しく引っ越してきた若い人が華やかなローズガーデンを作っていたら、気安く声をかけづらいのではないかと言うのです。

 

実際は、そうであったとしても「きれいにされていますね~」等の声掛けはありそうな気もするのですが、確かにご年配の方の感性としてはそういう所もあるのかもしれません。母は茶花が好きな一方でバラも育てており、一時期実家の庭にはバラのアーチもあった程なのですが、私の近所には日本庭園の家が多くバラは見たことがありません。ナルコユリヤブコウジフッキソウヤマアジサイの植わっている庭には親しみを持ちやすいのかもしれません。

 

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バラも多肉も持ってはいるのですが、庭の奥だったり塀の影だったりするので目立たないのかもしれません。

 

一見地味な庭ですが、ラズベリークリスマスローズローズマリーなどのハーブ類も植わっている為、一応ここにつるバラやクレマチスなど加えればいくらか今様な庭になるのではないかと思います。

 

そんな洋風な植物も、母や祖母から分けてもらった物です。バラは、母に分けて欲しいと頼んでおくと挿し芽で増やしてくれますし、クリスマスローズは「こんなの種がこぼれてあちこちに増える」と祖母が引き抜いてきてくれたものが育っていくのだから面白いものです。祖母は、庭を見ながら「これいいね」と言うとすぐに抜いたり切ったりしてきてくれるので、小さな庭を持つ私は「これは置けないからいいよ~」と予防線を張りながら話すことになります。それくらい気前良くバンバン抜いてきてくれるのです。

 

あれこれ分けてくれるのは気持ち的にも金銭的にもありがたいのはもちろんの事、「そっちはもう咲いた?」「冬越しできたよ」「ごめん移したら枯れちゃった」「大株になりすぎたから一回掘り上げたよ」などと、貰った植物のことを話題として話を弾ませることができるので、そういうところも良いことだなと思います。

 

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そんな地味目の庭も一年草は洋花メインで、秋はチューリップ等の球根とパンジーを混植しています。今年はコウも苗と球根を選んで植えていました。初めて種まき後の水やりをした際には至近距離で水をまいてポットから土ごと種を流したコウですが、その後何度か種まきや植え付けをしてすっかり自信もついたようで、学校でプチトマトを栽培した際も水やりをしたり脇芽をとったりして、夏休み中も熱心に世話をしていました。

 

先日など朝登校前にランドセルをしょったまま、花壇にささっとラディッシュの種を蒔いていきました。『初めて』には弱いコウですが、何度か経験する中でミスも含めて学習していけば、『分かっていること』には強いようです。

 

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球根の植え付けを一緒にするのは初めてでした。チューリップの葉には出る向きがあり重なりを考えて植えるといいことなどを教えると、色合わせなど考えて丁寧に植え付けていました。

 

 

鉢底石を入れるのは水はけをよくする為。

 

土を色々混ぜるのはそれぞれの役割があるから。

 

(配合はお母さんの好みで適当であること。)

 

植えた後に花を摘むのは、種を作るエネルギーを節約して根張りを良くしたいから。

 

パンジーを一緒に植えるのは、球根が目を出すまでの間も楽しむことができるから。そして、水やりを忘れるのを防ぐことができるから。

 

 

理由をセットで教えられると、よく覚えるコウです。先程コウが近くにいたので「コウ、何で鉢底に石を入れるか知ってる?」などとあれこれ聞いてみると、すらすらと全て答えていました。

 

「よく知っているねぇ。」と私が言うと、「だって教わったことだもん。」と『当たり前でしょ?』と言いたげな態度で首を傾げて、そんなことより持ってきた工作の出来を見てくれと言わんばかりに「この箱はここがこうなってて定規で線引いて作ったんだけど・・・・」と説明をしていました。

 

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話の流れを汲まずに「ところでさ」等の言葉も挟まず話すコウを見ていると、むき出しの自分の性質を見ているような不思議な気持ちになります。

 

園芸のことも、人の心のことも、コミュニケーションの作法のことも、色々学んでいく必要があるなぁと思います。自分自身も分かっているとは言い難い状況ですが、それでも一から自力で全てを学習していくより、いくらかは予備知識があるのは良いことかもしれないなと思います。(一方、予備知識が返って邪魔することもあるとも思います。)

 

植物の気持ちになって考えることができなくても、植物にとって良いこと良くないことを知っていくことはできるように、人と同じ気持ちにならなくても、理解を深め配慮することは、できる範囲でやっていくこともできるのではないかと思っている私です。この、できる範囲でというところがまた難しいと思うのですが、その線引きの難しさは誰にでもついてまわる物なのかもしれないな。などと考えるこの頃です。