ASDとADHDは私の全てじゃないけれど

成人になってからASDとADHDの診断を受けた人のブログです。ストラテラを服用しつつぼちぼちやっています。

飛ぶための羽はあるのか考えてみる(6)

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前回、飛ぶための羽はあるのか考えてみる(5) にて、「定型発達的なコミュニケーションで共感や愛情や信頼を感じたい!そうじゃないと、どうしても真実味が感じられない!」という方の望みの切実さと、実現に向けての難しさを書きました。

 

こちらのケースは、中々難しいところがあるかと思います。ない腕で抱きしめてもらおうとする行為になりかねないからです。抱きしめろと言う側も言われる側も大変でしょう。ASDと定型発達(非ASD)のどちらか・・・あるいは双方に、過剰適応をさせることになる場合もありそうです。

方法にこだわること。形にこだわること。ASDとはまた違った形で、定型発達者もこだわりがあり融通が効かない所があるのではないか。定型発達者のその感性を認めて尊重することもまた、必要な配慮の1つである。と言えるのではないか。

 

定型発達(非ASD)の人にとって、共感や心の交流の実感や、それに伴う共感や信頼や愛情の実感ということは、とても切実なものだと思われます。同時に、ASDの人にとって、定型発達的なコミュニケーションをすることはとても難しいことです。訓練次第でいくらかは何とかなる場合もあるようですが、パターンで学習し対応していくという向きが強く、そのことが「心の感じられない形だけのもの」という印象として感じられ、返って心を寒々しくしてしまうこともあるようです。

 

この両者の性質や状況からするに、ASDの人に「定型発達的なコミュニケーションで共感や愛情や信頼を感じたい!そうじゃないと、どうしても真実味が感じられない!」という要望を向けることは、かなり無茶な試みになりそうです。

 

もし、その上でそれを望むとしたら、覚悟と引き際が大事になってくるのではないかと思います。まず相手に「定型発達的コミュニケーションによって得たいものを与えてもらうこと」は「当然の権利」「普通のこと」という考えを改める。そして、自分の望みは「無い腕で抱きしめてもらうこと」に等しい望みなのかもしれないということを自覚し、覚悟を持ってその実現にあたるのが良いのではないかと思います。

 

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唐突に規模の大きい話で恐縮ですが、私は、無茶とも思えることを実現しようとして発展してきた存在が人類ではないかと思います。どうしてもその望みを叶えたいなら、無茶を覚悟の上で挑戦してみるという選択肢だって存在していると考えます。定型発達的な手順をもって心を交わしたい、感じ取りたいという望みだって、挑戦する自由はある筈です。

 

ただし、この望みは自分一人で叶えられるものではありません。相手のあることです。

 

もし相手に過剰適応をさせていることに気が付いたら、望みか、婚姻関係そのものから撤退を図った方が良いと私は考えます。つまり、諦めるか離婚するか、ということです。簡単に言えることではありませんが・・・・。

 

 

そして、この望みは相手のあることであると同時に、あなたがあって初めて存在できるものです。

 

もし、相手と通じ合いたい分かり合いたいと思うあまりに合理的配慮を頑張り、コミュニケーションの作法を相手に合わせ、過剰適応してしまっていたとしたら。それは、限界を超えた努力になっていないか、撤退について考える必要はないか、再度胸に手を当ててみてもいいのかもしれません。

 

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私は基本的に引きこもりで、人の心にも世情にも疎いです。そんな私の言うことは全くもってアテにはならないと思うのですが、私の知る限りでは自分の望み・自分の欲望を知る人は強いです。

 

頑張りどころや引き際が分かるからという点も強さであると言えるかと思うのですが、何より「自分自身を分かっている・分かり合っている・自分とのつながりを感じていられる」ということによる精神の安定感が、彼らの強さになっているのかもしれないな、と思うところがあります。

 

他人と繋がれない辛さ、寂しさは、実は一人になれない辛さ、寂しさの場合もあるのかもしれません。

 

 

いつもいつも、上手くいかない相手のことばかり見つめていると心が消耗します。お疲れ様です。そんな時は、できる範囲で自分をいたわり、自分と繋がる時間を持ってみると、何か分かることがあるのかもしれません。

 

彼を知り己を知れば百戦殆からず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆し。

 

相手を知ることと同じくらい、いえ、多分それ以上に、己を知ることは大切なことです。多くの人が自分の望みを見つけて、それが平和的に叶うことを願います。それではおやすみなさい。(これを書いている間に夜中になってしまいました。)