ASDとADHDは私の全てじゃないけれど

成人になってからASDとADHDの診断を受けた人のブログです。ストラテラを服用しつつぼちぼちやっています。

「へー、そうなんだ。」

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毎度私の知る限りの狭い範囲の話で恐縮ですが、ASDの人によくある『 定型発達(もしくは非ASD)の人を戸惑わせる会話方法 』の中に、どうもある一つの型が見えるような気がしています。

 
「こういうことがあったよ・こうなんだって」と言いたいだけの話に対して、「へー、そうなんだ。」と言って欲しいだけ。 
 
という会話パターンなのですが、伝わるでしょうか。
 
これは以前からしばしば見聞きしているパターンで、「え?愚痴じゃないの?」「え?相談じゃないの?」「そもそもこれ何の話?」「察して〇〇しろってこと?」などと意図の読めなさによって定型発達(or非ASD)の人を混乱状態に陥らせるようです。その混乱状態は、時に苛立ちや怒りや不安を伴う物でもあるようです。
 
不思議なもので、これがASD同士の場合は上記のような反応を引き出しにくく(全くない訳ではないものの)、「へー、そうなんだー。」「ふーん。なるほどね。」などのやり取りでスムーズに会話が成立してしまうことも多いようなのです。そして成立した会話はそのまま完了してしまいます。 
 
ASDの人には『 自分は相手にするのに、相手にされたら気分を害すコミュニケーション方法 』がしばしば見られると思うのですが、ここに関してはするのもされるのもOKの人が多いように感じます。コミュニケーションというものに対する捉え方が、定型発達(or非ASD)の人と何か違うのかもしれません。
 

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この会話のパターンは私の子供もよく行い、それはしばしば夫を苛立たせます。それが私にはとても興味深く思えます。夫はある程度私との会話に慣れており、その中にはこのパターンの会話もよく含まれているからです。
 
けれど、今日、それに対して少し分かったような気がする出来事がありました。細かい会話内容は覚えていないのですが、子供が何か恐竜について「〇〇は××なんだって。」という話をしたのです。食器を洗いながら「ふんふん。」と聞いていたら話の続きがやって来ないので、『ん?』と思い子供を見ると、既に子供の中で会話は終わってしまったようで黙々と食事をしています。
 
「え?これで話は終わり?」と聞く私に、子供は戸惑った顔で「え?」と言います。
 
私「いや、まだ続かないの?話。これだけ?」
子「え?うん。これだけだけど・・・。」
私「え?これ何の話?」
子「え、〇〇は××なんだってって話だよ。」
私「・・・・お母さんは何て返事したらいいの?何て言って欲しかった?」
子「・・・『へー、そうなんだー。』って言って欲しかった・・・。」
 
というやり取りをして、思わず内心で笑ってしまいました。まるで、夫と子供のやり取りのようだったからです。あー、そういうことかぁ。と、少し分かった気がしました。
 

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私はある程度、定型発達(or非ASD)の方向けの話し方もします。あくまで私なりに・・・であって十分なレベルのものとは言えませんが、それでもいくらかは定型発達的ルールに則った会話方法で話していると思います。
 
そんな私は、『へーそうなんだ。を求めただけの話』をする際『この話はこれでおしまいですよ。』という感じを幾らかは出すようにしています。夫も『そもそもこの会話の形式おかしくない?』という疑問そのものは乗り越えているので、「へぇ、そうなんだ。」と返してくれたりします。(そして会話は終わります。私は満足です。)
 
ところが子供の話は、どうも『へーそうなんだ。を求めただけの話』ではない『続きがある話』『前フリ』のように聞こえる時があるようなのです。
 
以前からそんな気はしていましたが、ASDである私は定型発達の夫に比べて子供の言うことが感覚的に理解しやすい為、子供の話にイラつく夫に『え?これ多分ただ聞くだけでいい話でしょ?』と不思議に感じることが多かったのです。私の時は平気なのに、何でだろう?と疑問に思っていました。
 
ですが、いざ自分が同じような感覚を味わってみると、分かる気がします。確かにこれは変ですし、惑わされます。私は面白いなと思いましたが、イラつく方もあるでしょう。
 
 
次は、『そもそもこの話のパターンは何なの?何を求めてるの?』ということについて考えてみたいと思います。