ASDとADHDは私の全てじゃないけれど

成人になってからASDとADHDの診断を受けた人のブログです。ストラテラを服用しつつぼちぼちやっています。

飛ぶための羽はあるのか考えてみる(5)

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実は、「好感や信頼をどのようなコミュニケーションの方法から感じようとするか」ということへのこだわりや制限によるすれ違いそのものは、定型発達(非ASD)の人同士であっても珍しくないことだと思います。特に家族や恋人などの親しく濃い間柄では、時に「愛情をどのようにして伝えるのか」というポイントにおいてこだわりやすれ違いが生まれがちなように見えます。

 

「愛情は言葉で表すものだ。言葉にせずとも行動で伝わるという考えは、愛情を相手にきちんと伝えることへの怠慢とも言える。」

という人にとっては、態度で語られる愛情は全然ピンと来ないでしょうし、

 

「愛情は態度で示すものだ。言葉だなんて、口先だけならどうとでも言えるだろう。行動で愛情を示さない人は、誠意に欠けていると言える。」

という人にとっては、言葉で紡がれる愛情は薄いものに感じられるでしょう。

 

けれど、これら2つの主張をする人々は、本当に「言葉だけ」「態度だけ」で相手の愛情を感じているわけではないのではないのだろうと、私は考えています。言葉や態度に「真実味」を感じるかどうかという要素は、定型発達的コミュニケーションのやり取りに置いて得られる好感や信頼に基づくものだろうと思うからです。

 

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どんなコミュニケーションの形を好むにせよ必要となる「好感や信頼の真実味」が、定型発達的コミュニケーションのやり取りに依存するとすれば、合理的配慮に基づくコミュニケーションではそれらのものが得られなくなる(もしくは得にくくなる)と考えられるのではないでしょうか?

 

ただでさえ、人は愛情や信頼を感じるにあたって「これが愛情だ」「これが信頼だ」などと形を決めてしまいやすいものであるのに、更にそれらに対して「真実味」を感じるかどうかを、定型発達的なコミュニケーションによって決定していこうとするのだとしたら。

 

合理的配慮に基づくASDに合わせたコミュニケーションでは、方法の歩み寄りはできたとしても、愛情や信頼に真実味を感じ、実感を持つことが難しいのではないか。

と考えられるのではないでしょうか?

 

で、結局どうすればいいのか。というと、これはもう『個々それぞれ胸に手を当てて、本当に大事にしたいものを考えよう。』ということになるのではないかと思います。これだけ引っ張って結局そこか!という心の内の突っ込みが止まらないのですが、やっぱりそこが結論になってしまうのではないかなーと思うのです。

 

というのも、私が見る限り『それぞれの本当に大事にしたいもの』はかなり幅があって、それぞれが自分の欲求を自覚するしかないのではないか?という考えが、今私の中で最も有力なものなのです。

 

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・「共感や愛情や信頼を感じたいのに、定型発達的なコミュニケーションではそれを感じられずに苦しい。」

 

という方は、合理的配慮によってコミュニケーションが取れるようになることによって、「これがこの人なりの愛情なのかな?」「分かりにくいけど、こういうところ、実はこっちのことを気にかけてくれているのかも?」という、その人なりの愛情や信頼の形が見えてくる場合もあるのではないかと思います。

 

私の夫がこのパターンです。夫がASで妻が定型という知人夫婦も、このパターンですね。たまに、ふっと寂しいような虚しいような気持ちになることもあるらしいのですが、そういう時は自分のコンディションが悪い時だったりするとのことで、ある程度割り切って結婚生活を続けていらっしゃるようです。夜中に息が苦しくなって目を覚ますと、一緒に起きて背中をさすってくれたりするそうです。察することはできない代わりに、頼んだことをよく引き受けてくれる夫なのだそうです。

 

 

・「定型発達的なコミュニケーションで共感や愛情や信頼を感じたい!そうじゃないと、どうしても真実味が感じられない!」

 

という人も、中にはいらっしゃるかもしれません。そりゃそうだ、と思います。これが、飛ぶための羽はあるのか考えてみる(1)に書いた『カレーで空腹を満たしたい!という欲求は、カレーを食べない限り満たされないのだろうと思います。』という所です。

 

こちらのケースは、中々難しいところがあるかと思います。ない腕で抱きしめてもらおうとする行為になりかねないからです。抱きしめろと言う側も言われる側も大変でしょう。ASDと定型発達(非ASD)のどちらか・・・あるいは双方に、過剰適応をさせることになる場合もありそうです。

 

 

方法にこだわること。形にこだわること。ASDとはまた違った形で、定型発達者もこだわりがあり融通が効かない所があるのではないか。定型発達者のその感性を認めて尊重することもまた、必要な配慮の1つである。と言えるのではないか。

 

お互い、どこまで配慮し、どこまで譲り合えるのだろうか。そんなことを考えるこの頃です。

 

次回、その「それぞれの本当に大事にしたいもの」の幅から思うことと、今まで書いたことから現時点において歩み寄りについて思うことを書いてみたいと思います。