飛ぶための羽はあるのか考えてみる(1)
カサンドラ症候群について知る為ネットをうろうろしていると、カサンドラ当事者会のブログを見つけました。そのブログの文章に、
ASDは、わかりにくい障害です。
わかりやすい障害に例えて考えてみましょう。
両腕がない夫に抱きしめてもらうことを望むのは、不可能なのです。
という下りがありまして、シンプルで分かりやすい表現に感心しました。
そして、思いました。
確かに、両腕がない夫に抱きしめてもらうことを望むのは、不可能です。無い袖は振れないし、ない腕は動かせない。けれど「抱きしめてもらうことによって欲しかったもの」は、ひょっとしたら形を変えて得られる場合もあるんじゃないか・・・・ということです。
これは、希望でもあり諦めでもあるだろうと思います。形を変えて得られるものは、最初欲しかったものとは違うものだからです。
カレーで空腹を満たしたい!という欲求は、カレーを食べない限り満たされないのだろうと思います。焼きそばで空腹を満たしつつジャガイモのカレー炒めを食べても何だか違うだろうし、とろっとした刺激物をかけたご飯が食べたいのかも・・・・とマーボー豆腐を食べてみても、それは違う感じになるのではないかと思うのです。
勿論、それでOKな人もあるでしょう。とにかくお腹が空いて何か食べたかった「強いて言えばカレーかな」という人はマーボー豆腐で全然OK!となったりするかと思うのですが、「私は!カレーが!食べたかったの!!」という人には無意味な提案であり無意味な慰めということになるだろうと思います。
結婚して幸せになりたい!という人に、「結婚だけが幸せじゃないよ。」と言うような話なのかもしれません。それは確かにそうなんだけど、そういうこと言ってるんじゃない感。
翼はなくても空は飛べる。それは本当。ハングライダーは羽ばたきではなく滑空になりますが、それなりに鳥の気分を味わえそうです。それでも、「羽ばたきたい」がメインの人は満足できないかもしれません。
私が最近考えることがあります。ひとつは、定型発達者(もしくは非ASD者)の「会話による意思や認識の調整」「心のやり取り」は、ASDにできるのかどうかということ。
もうひとつは、ASDの人に合わせた「会話による意思や認識の調整を行わない」「空気や会話の積み重ねで合意を形成したり導いたり計ったりしない」やりとりが、定型発達者(もしくは非ASD者)にできるのかどうかということです。
前者は、一般的には難しいと言われています。訓練や知的レベルの高さ、成育歴等によって、定型発達者のルールに合わせた会話は上達する可能性は多かれ少なかれあるようですが、いかんせん「付いて行ってる」レベル止まりで、本当にそれを会得したと言われる程に習熟することは難しいようです。そこまでのレベルに至ったとしても高度にパターン化された処理であることが多く、定型発達者の感覚を掴むことは難しいようです。(それがどうにもならないから『発達障害』なのでしょうね。)
一方、後者は近頃「合理的配慮」として推奨されている方向の動きですね。言うなれば、コミュニケーション・情報伝達のバリアフリーといったところかと思います。確かに、配慮をされることで、「見ればわかるでしょ」「普通こうでしょ」「何で分からないんですか?」の類のトラブルを減らすことが可能かと思います。有効そうです。
では、
・定型発達者の空気や会話による調整が分からないASDは出来る範囲で頑張り
・定型発達者向けの対ASDマニュアルを充実させて合理的配慮をすれば
もうこれでOK!いいかんじ!と言い切れるかというと、私はハッキリすっきりと「うん!そう思う!」とは言えないのが素直なところです。
「うーん・・・・・そうだなぁ・・・・、職場ではそんな感じかなぁ・・・・。『異質なものは排除していこう!』とか、『いくらASDとは言っても、これくらい分かるでしょ!え、分かんないの?何で?』とか・・・そんな風になることのない職場なら、上手くいくこともあるかもしれないね。夫婦は、夫婦によるかなぁ。難しい場合も多いかもしれない。」
というのが私の現時点での考えです。
長くなったので、このことと『無い袖を振るのか振らないのか』について、ブログ記事を分けて書いていきます。