飛ぶための羽はあるのか考えてみる(4)
「定型発達者(もしくは非ASD者)とASD者は、どのように良い関係を作り、維持することができるのか。」ということを3回に渡って書いてきました。
ここで、改めて先のカサンドラ当事者会のブログの文章に戻ってみたいと思います。
ASDは、わかりにくい障害です。
わかりやすい障害に例えて考えてみましょう。
両腕がない夫に抱きしめてもらうことを望むのは、不可能なのです。
その通りだと思います。
両腕がない夫に抱きしめてもらうことを望むのは、不可能です。
そして、私は
無い袖は振れないし、ない腕は動かせない。けれど「抱きしめてもらうことによって欲しかったもの」は、ひょっとしたら形を変えて得られる場合もあるんじゃないか・・・・ということです。これは、希望でもあり諦めでもあるだろうと思います。形を変えて得られるものは、最初欲しかったものとは違うものだからです。
と書きました。
合理的配慮をすることで、多かれ少なかれ関係が良くなっていく可能性はあります。意志の疎通ができるようになることで相手を知り自分を伝えて更に関係を変えていくという、良いスパイラルが生まれるケースもあるだろうと思います。
一方、合理的配慮によって関係を良くしていこうとすれば、「定型発達的会話調整術」によって関係を作ろうという試みは、ある程度あきらめざるを得なくなる部分もあるのではないかと思います。私としては、そこが難しい所だな・・・と思うのです。
先のブログ、カサンドラ駆け込み寺 ハーンの妻達へ内の記事にて、
あなたの中の「本当は・・・・べき」「普通は・・・」の
「慣習」「概念」「常識」を手放しましょう。
ということが繰り返し説かれています。
妻が変革する必要があります。
夫とともにやっていくためには、妻が、持ち合わせている
「慣習」「概念」「常識」を一度、手放さなくてはならない場合があります。
変革するなかに、自立することも、望まれるかもしれません。
自立は、経済的なことばかりを指すわけではありません。
そういうことなのだろうと思います。同時に、そここそが難しいところなのだろうなと思います。実践することの難しさと対応策としては先に書いたようなことが考えられるのですが、ここで語りたい難しさは、もっと根本的なその方法では欲しいものが得られないかもしれないことについての難しさです。
定型発達的に心を通わせ合うこと。「お互いに調整が上手くいっている」「相手と自分は伝えあい理解することができている」という感覚は、定型発達(非ASD)の人にとって、相手への好感や信頼のベースとなるものではないかと私は思っています。(合っているかは自信がないのですが、私には定型発達的な会話のやりとりはそのようなものに見えています。)
合理的配慮をすることは、時としてその「定型発達的なやりとりによって得られる重要なもの」を損なうことになるのではないかと思うのです。
合理的配慮をするということは、「頭の中(意図・状況把握・予測など)」と「心の中(感情・気分など)」を定型発達的にやりとりしないということです。空気や行間で伝えあわずに、はっきりと言葉にしていきます。『察し合う』『共感によって通じ合う』ことを極力省いたやり方が合理的配慮のコミュニケーション方法です。
それは、
「頭の中、心の中が見えるから、はっきり言わなくても伝わるんだよね。」
「それって、お互い分かり合おうとしているからだよね。」
「それで分かり合えるくらい、考えや気持ちが合っているってことだよね。」
「つまり、私たちって仲間ってことだよね。信頼と好意があるんだよね。」
という論法を成立させないコミュニケーション方法ということになるのではないでしょうか?
これらのことが成り立たないから、感じられないから、ASDと一緒にいる人はカサンドラ症候群になっていく訳で、だからこそ先のカサンドラ当事者会のブログでも
妻が自分を知る必要があります。
あなたの夫は、あなたの「普通は・・・」を
持ち合わせていない規格外の相手です。
相手にその「普通は・・・」を望む前に、あなたが望んでいることが、
本当にその「普通は・・・」なのか?を一度、確認してみる必要があります。
妻が変革する必要があります。
夫とともにやっていくためには、妻が、持ち合わせている
「慣習」「概念」「常識」を一度、手放さなくてはならない場合が
あります。
変革するなかに、自立することも、望まれるかもしれません。
自立は、経済的なことばかりを指すわけではありません。
と書かれているのだと思います。
私はこれを読んで、
ASDと共に居る為には、
・定型発達的なコミュニケーション方法により
・頭や心の中身のやりとりをし調整をしていく中で相手を感じて
・「相手もこちらのことを感じている」ということを感じる
ということを重視し強く求めるという
方針そのもの・感性そのものを変える必要がある。
と提言しておられるのではないか・・・と思いました。
「じゃぁ、合理的配慮によって成り立つようになったコミュニケーションから心や共感を感じていけばいいんじゃない?」
と言えるかというと、そこが私にとって「定型発達(非ASD)とASDのコミュニケーション問題」の一番のキーポイントであると考えられる所である同時に、答えの出切らない場所でもある・・・という感じなのです。それについて、次に書いていきたいと思います。一応救いのある話になる予定です。