ASDとADHDは私の全てじゃないけれど

成人になってからASDとADHDの診断を受けた人のブログです。ストラテラを服用しつつぼちぼちやっています。

飛ぶための羽はあるのか考えてみる(2)

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前回、私は

・定型発達者の空気や会話による調整が分からないASDは出来る範囲で頑張り

・定型発達者向けの対ASDマニュアルを充実させて合理的配慮をすれば

もうこれでOK!いいかんじ!と言い切れるかというと、私はハッキリすっきりと「うん!そう思う!」とは言えないのが素直なところです。

飛ぶための羽はあるのか考えてみる(1)

と言いました。

 

というのも、定型発達者(もしくは非ASD)がASDに合わせた合理的配慮をする時、そこには大きく分けて2つの負担がかかってくるだろうと思うからです。『普通』を脇に置いて合理的配慮を行わなくてはいけないということのストレスですね。

 

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1.感覚的に理解できない『本来であれば要らない筈』の配慮をすること。

 

『本来であれば要らないはずの、分かり難く (感覚的にピンとこなくて) 面倒な (必要性が理解し辛い) 配慮をしなくてはいけない』ということは、かなりストレスを感じるものではないかと思います。普段、普通や常識を大切にしている人であれば尚更です。普段自分が当たり前と受け止めて使い従い生活しているものを一時的であったとしても抑え込むことは、苦痛を伴う行為だろうと思います。

 

職場に限っての話であれば、限られた時間内での『公的な自分としてのふるまいをする場』でのことなので、「対人スタイルの引き出しの1つ」とどこかで割り切れば、まだいくらか何とかなる場合もあるかもしれません。しかし、家庭であればそうはいきません。本来、一番素に戻りリラックスできる場で、自分が持っている素直で自然なコミュニケーションが取れないということは負担の大きいことです。

 

 

2.心のエネルギーを一方的に消耗させられるような感覚。

 

2つめの苦痛は、「ASDの人とは心の交流がし辛い」ということにより起こるもの達です。特に、指導に熱心な先輩や上司・業務上のことなど協力が必要な関係・夫婦・親子などの間では、寂しさ・虚しさ・怒り・徒労感を感じる方は多く、時に深刻なノイローゼを引き起こす程です。定型発達的な関りによって心の交流を図りたいのにできない上に、「相手に配慮する」という行為を「心のエネルギーを使って」やっているというのに、お礼や感謝している素振りなどの「心のエネルギーのお返し」が、全然来ないのです。

 

 

これらのストレスがぐぐっとかかってくる上に、それらのことに対して怒ったり愚痴を言ったりすることが道徳的に禁止されているのです。障碍者への配慮がストレスだということは少なくとも大っぴらには言えませんし、親しい中やネットで愚痴を吐いても、自分の良心が痛むという方もあるでしょう。

 

もしも同僚同士こっそりとストレスを吐くことで精神のバランスを保つようになったらば、何かのきっかけで「あいつを排除しよう」という動きが起きることもあり得ます。そうなれば、世間は内心や匿名では同情してくれることはあったとしても、表向きは「ひどいことだ」と責めるかもしれません。他、良心や熱意があるばかりに無理を重ねて限界を迎えてしまう人もいるだろうと思います。

 

 

このようにして書くと、「じゃぁ無理じゃん!」となるかもしれません、実際、我ながら読んでいてひどい内容だと思うのですが、残念ながら前述のようなことが起こりやすいということは事実であり、だからこそ「カサンドラ症候群」も、名前を付けられ存在しているのだろうと考えています。

 

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では、私が「無理じゃん」と思っているかというと、そんなことはありません。「無理」ではなく「難しい」と思っているだけです。可能かどうかで言えば、可能な筈です。現に、そのようにして定型発達の人とASDの人がコミュニケーションを成立し、関係を保ち協力しあえることも、その例も、私は知っています。意外と居るものです。私と夫も、ちょこちょこすれ違いぶつかりながらもぼちぼち仲良くやっています。長い時間を夫婦として過ごしている人も知っています。共に働いている人も知っています。実際にそういう人もいるのです。

 

次に、その「上手くいく例から見えるポイント」ついて書いていきたいと思います。