ASDとADHDは私の全てじゃないけれど

成人になってからASDとADHDの診断を受けた人のブログです。ストラテラを服用しつつぼちぼちやっています。

「どうだった?」という質問

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典型的なASDあるあるのようですが、私は「どうだった?」というタイプの広い(?)質問に答えられません。母が言うには幼少時からそうだったようで、保育園から帰った際に「今日どうだった?」と聞いて答えられたためしが無かったそうです。

 

何を聞かれているのかよく分からないといった感じだったようで、母は「今になれば、『給食おいしかった?』とか『どんな遊びをした?』とか聞けば良かったなって思う。」と言います。孫(コウ)を見ているとそう思うそうです。

 

娘と孫という形でASDの子供の成長を二人分見ている母の洞察には興味深いものが多いです。それこそ前述の話のように、コウに「今日どうだった?」系の質問をする際には、「どうだった?」で答えが出なければ具体的に訊いていくことで上手に話しを引き出しています。

 

また、そのように話しかける際には、まず最初に「学校行ってきた?」などの質問を挟むとコウの反応が良いのだと言うのが面白いと感じました。確かに母の言う通りで、私もコウに話しかける際には無意識にそうしているところがあります。

 

母の推測としては「今から何の話をするのか分かってから話し出すと、話がスムーズにいきやすい。」のだそうで、「学校行ってきた?」「うん。」というやりとりを最初に挟むことで『これから学校の話をしますよ』という意図がコウにしっかり伝わるのではないか?ということなのですが、多分これは合っているのではないかと思います。いきなりシンプルに「今日どうだった?」と聞けば、「今日って何が?」となる可能性が高そうです。

 

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私は最近、会話を用いたコミュニケーションというものを改めて見つめ直しているところで、その中で思ったことや考えたことを夫や母に聞いてもらい、意見をもらっています。その中で母の言う事の一つに大きく驚きと納得を得たのでここに書いておこうと思います。

 

前述のような「どうだった?」という問いかけに関する話をしていた時に、母が「そもそも、『どうだった?』って、他の質問とは違うのよ。質問ではないっていうか。うーん、確かに質問って言えば質問なのかもしれないけど、『何が楽しかった?』とか、『混んでた?』とかの質問とは違うっていうか。そこが、何かあんた達との違いなんだと思うんだけど・・・・。」と言い出しました。

 

表現は不明瞭ですが、何かハッキリと感じているものはあるらしい母が頑張って説明してくれたところによると、「あんた達には、『どう』がないのよ。どうっていうのは、質問されて出てくる答えなんじゃなくて、その時に探したり作ったりするんじゃなくて、もう既に聞かれてる本人の中にあるものなのよ。」ということなのだそうです。

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「なんていうのかなぁ。思い出って、何かした時に自然にその人の中に『こうだった』っていうものができるのよ。例えば、遊園地に行って楽しかったとか、凄い人込みで疲れたとか。それがその人の思い出なのね。」

 

「でも、コウやあんたの場合は、思い出が『全部』でしょ。どこどこに行って何とかでこういうことがあってああでこうで・・・・・っていう全部が思い出で、『どうだったって聞かれたけど、これを全部言うと長過ぎってなるし、じゃぁ何を答えればいいんだろう?相手はなんて答えて欲しいの?』ってなってるんじゃないかなって思うの。

 

確かにコミュニケーションの上で相手に合わせて『こうだった』を作るってこともあるけど、基本的に素直な会話であれば『どうだった?』っていうのは、相手の中にある『こうだった』を聞きたいだけなのよ。でも、あなたたちには、そういう『こうだった』がなくて、ぜーんぶがあるから、『どうだったって、どれのこと?』ってなってるんじゃないかな・・・・分かんないけど・・・・。」

 

うんうん言いながらまとめてくれた母の発見に、私は目から鱗が落ちたような気がしました。腑に落ちた感じという方が近いかもしれません。「あぁ、そうか。それで答えられなかったんだ。無いんだ。私の中に対応する『こうだった』が。」と思いました。

 

納得というのとも違うのですが・・・・あの長年上手くいかなかった不思議なやり取りで求められていたのはそういうことだったのかという部分と、「あ、私にはそれは無いんだ。」という断絶の発見に、何とも不思議な気持ちになったのです。

 

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私は現在、「どうだった?」に答える時には『相手はどんな「こうだった」を想定しているのかな?』と考えて、私の中にある沢山の『こうだった』の中から一つを選んで話しています。

 

ところが、『どうだった?』という問いかけは、尋ねた人にとって「この人は『沢山の体験やそれに伴う感情』の中から何を『こうだった』に据えるのか?」ということを知ろうとしている質問でもあるらしいと考えると、私の提供する『こうだった』はそれに対して全然回答として成り立っていないということになってしまうのではないでしょうか。

 

もし仮に「どんなところなのか」という情報を知りたくて「どうだった?」と聞いたのだとしても、『私はこれを強く印象に残したので人に伝えたいと思いました』という要素が不十分な回答ということになるでしょうし、

 

もし仮に「あそこ楽しいよね・暑かったよね・当分行きたくないくらい混んでたよね」などの共感をすることが目的だったとして、何を『こうだった』として抽出するかに私が反映されているという前提を共有できなければ、『共感成立の価値』を私は正しく認識できていないということになるのではないか?と思いました。

 

演出としての共感成立であって相手に合わせているだけだったとしても、前提となる前述の設定を共有できていないのであれば、それは本当にストレートな意味での「相手に合わせただけ」になってしまいます。その場合、私が相手に提供できるのは言うなれば「相手に合わせようとする姿勢」だけであって、建前の部分を大事にした『私はあなたと同じ感性感覚の持ち主なので共感が成立していますよ』という演出が、きちんと出来ていないということになってしまうのです。

 

すみません。上手く整理できず、いつもに増してややこしい話になってしまっていますね。もう少しまとめてみたいところです。分かったところで上手くできる感じは今のところありませんが、知っていることそのものにそれなりの意義はあるのではないかと思うのです。

 

「それ」を上手にできなかったとしても、「ここで今何が行われているのか」を知っていることには意義があるのではないか。ということを、思っているこの頃です。